さて、一年生のときの担任、国語の M 先生。授業から脱線しては生徒達を笑わせ一見ひょうきんで穏やかな風貌。教科書に出てきたある熟語の意味を問われ答えられなかった僕にその教師はなんと「君、小学校からやり直したほうがええんとちゃうか」という暴力的言葉を放った。小さなときから『このバカが』と罵られ続けるには慣れている僕もこの言葉にはさすがに衝撃を受けた。これに発憤して勉強に励めという善意の解釈もできぬではないが、このときの教師の尋常ならぬ眼つきが今も網膜に焼き付いている。直感的に「この先生は発憤材料に言葉の暴力を使ったのではない。本音を吐いたのだ」と思った。この先生を思い出すたび「腹黒のほとけ顔」という言葉が同時に浮かぶがなぜだかわからない。
博多名物「ヒヨコ饅頭」というたいそう美味い菓子がある。弁当のあとにでも食おうとたまたま制服のポケットに入れていてこの先生に見つかった。まずは「ポケットが膨れるほどにものを入れるもんじゃない!」(ものを入れていかんのならなぜポケットなどあるんだ)次に中身を見て「よりによってヒヨコ饅頭とは何事であるか」この先生、あだ名がヒヨコであって本人もそのことを知っていた。「ヒヨコ饅頭」という言葉が何度も出た。これを教室でやられたのである。(あ、この先生僕をダシにして人気取りをやってるな。俗物!)
現在所在も知れていてこの先生を慕う卒業生が多いと聞くが僕は会いたくもなければ声を聞くのさえお断りだ。数少ない、嫌いな教師の一人である。
数学の T 先生はサディストである。中間・期末試験は四、五問の論述式で、部分点をくれない。僕は元々理科系が好きなので数学はできるはずだったが「先生との相性」というものがあるのだろうか、第一の苦手科目が数学になってしまった。
この解釈必ずしも誤っているとは思えない。まあまあ得意だった英語。中学三年生のときだけ教わった A 先生の授業が面白くてしょうがなかった。講義内容は高度、濃厚で、しかし授業中にどんどん脳が吸収していくのを感じたものだ。この先生の試験は難しく、学年平均点も他教科と比べて格段に低かったのだが僕の成績は良く、うろおぼえだが学年平均が 60 点に満たないときに 90 点近く取ったりし、それを聞いた親友の O 君 -- 秀才の彼でさえ僕よりずっと下だったのだ -- 元々口の悪いやつで悪気はないのだが驚いたという表現を数え切れないくらいやってくれたものだ。
横道に逸れたが、論述式で部分点なしとくれば「零点」の可能性が出てくる。そう、その「零点」の答案用紙右上は長径五、六センチに及ぶアンダーライン付きゼロの文字で赤く血塗られていた。「零点」はすぐに捨ててばかりだったが一枚くらい残しておけばよかった。今となっては額に入れて飾りたい気分である。あんな明快な零点答案用紙、滅多にないもんなあ。
僕たちの頃、中学生は丸坊主に詰め襟、高校へ上がると(同名の高校へ自動的に進級する)頭髪自由、制服なしである。
中学卒業の少し前に散髪へ行ったきり三年間床屋さんとはお見限りだった。どんな姿になるか想像がつこう。高校三年生の夏、帰途の電車が新大阪駅に停車中、窓ガラスに映る自分の姿を見て突然顔が真っ赤になり帰宅するなり床屋さんへ直行した。
物理の N 先生。クラス担任を受け持っていない。物理教室に生徒が集まり先生が教壇に登って生徒を見回す。こちらをみて目を丸くした N 先生、「君は誰や?」
「なんや、君か。髪の毛が無くなると顔まで変わるもんやな」髪の毛は短くしただけである。僅か三年間、二百二十名もの相手をするだけなのによくまあ全生徒の顔を覚えているものだと嬉しくなった。
あまり雑談はされない方だったが印象に残った話が一つある。「敗戦の日を境に新聞記事がコペルニクス的転回をやった。僕はあれ以来新聞、マスコミを全然信用しない」
きっかけは違うが僕もマスコミを「真実を報道する機関」とは思っていない。これより話は脱線する。
職場に ABC 朝日テレビから電話があったらしい。昼寝中の僕を起こしかねた職員が午後診のときに伝えてくれたのだが「サイトに耳垢のことを書いてあるのを読んだ。ついては話をお聞きしたい」というものだったそうな。しばらく放っておいたら自宅にも電話がかかってきた。このときも私は寝ていて電話には長男が出たのだが、向こうさんの言い分は似たようなことで、躾のなっていない長男は「今寝てる」と言って無愛想にも切ってしまった。
たかが耳垢ごときで「意見を」とは陰謀にきまっている。このサイトに載せていた耳垢に関する記事(既に修正済)は「むやみに取ろうとするな」が主旨である。さてはテレビ局め、反対意見の耳鼻科医とかその他得体の知れぬ連中の意見を集め、おもしろおかしく編集して揉め事を作り出したいのだなと即座に判断した。誰がテレビなどに出てやるものか。