1995 年 2 月 阪神大震災で西宮の自宅マンション半壊を喰らい大阪へ疎開していた私は混乱の中、なんとか第四級アマチュア無線技士の免許を取得することに成功した。早速ハンディトランシーバー「C - 550」を買って 4 月に呼出符号 JK3UAV を開局。
四級の学科試験は同一問題が組み合わせを変えて繰り返し出題されるだけなので、ハムショップなどにある問題集を数度繰り返して読めば事足りる。原付免許よりは難しいが深く考えることはない。因みに三級の学科は四級よりも問題の種類が少なく、覚えやすいと聞く。
また、無線機は山用に限るなら小型、軽量、ある程度の防水性があること、単三型の電池が使えるものを推奨する。その後 C - 701 (145, 433, 1295MHz / FM) を入手、別途 3 センチ長程度のアンテナを付けておき、非常用として伸ばせば 1 メートルほどになる 145, 433MHz 用のロッドアンテナをザックに入れている。
さて、面白半分にやっていたらすずのこさん、今度はヘンテナとやらの設計図を送ってきた。律儀な私は幾つか作ってみた。
さらにすずのこさん、モールス符号を憶えるためのテープを送ってきた。律儀な私は 7 月頃から早速憶えはじめ、どうせなら三級など飛ばしてしまえとばかりに 45 字 / 分のテープをせっせと聞き始めた。電信で交信することが目的なら三級に受かるだけでは実用にはならないらしい。まあ、受かってから高速受信の練習をすれば済むことではありますが。ともあれ滑止めのために 9 月の三級国試も願書を出しておいた。
8 月には大山、那岐山をすずのこさん、たにけいさんに案内していただき、9 月には上高地から前穂高岳、奥穂高岳と回って二級の学科勉強(三・四級とは段違いに難しい)もままならず不安の日々。
1995 年 9 月 森の宮での三級受験の頃には 40 字/分くらいは受信できたつもりであったが、試験の初っ端(三級は電信術試験が最初に行われる)符号間、スペースの区別がつかず、気を取り直して一単語受信できただけで玉砕。落胆の帰り道、梅田の旭屋書店・本店に寄って無線雑誌を見ていたら 11 月にも三級の試験が行われ、その願書提出〆切が今日であることを知る。今から願書を買い求め郵便局へ出向くのでは間に合わぬ。無線雑誌で願書受付場所(無線協会)の電話番号を調べ、その場で直接受け付けられることとその所在地を確かめて梅田から天満橋まで逆戻り、滑り込みで願書提出。
1995 年 10 月 二級は午前が無線工学。まあなんとか合格点。午後の一発目に電信術。幾つか落としたようで受かったかどうか分からない。学科の勉強にかなりの労力を費やしたので二度と勉強はしたくない気持ちがプレッシャーをかけたのでしょう。午後の法規は見たこともない問題があったけれどなんとか合格圏内。電信術の出来具合が分からないので 12 月の合格発表まで随分長かった。しかしまあ、届いた知らせは吉でした。ホッ。ちょうどその頃西宮市から豊中市に引っ越し。
電信をやるなら短波に出なければ面白くないそうで、短波無線機の選定、アンテナをどうするか等で年末・年始を過ごすことになった。もちろん電信テープやその頃にはモールス符号をパソコンから打ち出すソフトを使って練習は続けていました。
オンエアするには局免というものが必要で、これの届いたのが 1996 年 2 月半ばのこと。セッカチな私はその当日無謀にも 1.9 MHz バンドで CQ を打ち、思い出すも冷汗三斗の初交信となりました。呼んでくれた JA9XBW にはご迷惑をおかけした。
さて、1996 年春から一級国試科目である和文電信受信術が消えた。既に 60 字 / 分が受信できていた私は腕試しとばかりに受験申請書を出す。
1996 年 4 月 一級受験。今度は数文字落としただけ。学科は鉛筆を転がして受かるわけもなし。
一・二級の電信術合格通知書は向こう三年間有効であり、つまりその間に学科だけ受かれば合格となる。一級に受かったところで別段得することはないし、一年前の二級・学科の勉強を思い出せばうんざりするばかり。ぎりぎりまで迷った末「受けるなら勢いのある今しかない」と判断、8 月 20 日午後遅く、〆切ぎりぎりに無線協会へ出向きました。終業の寸前でした。
1995 年と同様、9 月の槍ヶ岳~西穂高岳を挟んで学科勉強には随分苦労。もう二度とやりたくない。
1996 年 10 月 学科試験に合格。
2000 年の春、現住所に引越し、高層アパマンを脱却。「日本の正しいハム」ならタワーを建て、ビームアンテナを据え、一キロワットを設備するところだがあいにく天文が本業である私は 30 年来の夢であった観測室を作り、観測に向けて準備中。観測室ができる前に 7 / 14 / 21 / 28MHz のダイポールアンテナを挙げ、車載無線機も処分せず、設備は整っているが 5 月の「春期関西 VHF コンテスト」(交信証印刷済だが未郵送:2000 Aug. 15)以後停波中であり、今後無線活動がどうなるか分らない状態である。もちろん、元々山用に取った局免許証とハンディ機だけは残しておく。