18 日 こまくさ、平熊、わかた三名は車で柏木へ。柏木でテント泊
19 日 柏木→阿弥陀ヶ森→大普賢岳→和佐又ヒュッテ(暗くなるまでにヒュッテに到着できないと判断した場合は安全なところでテント泊)。PLUTO は午後から電車、バスにて和佐又ヒュッテへ。和佐又ヒュッテにて全員合流。ヒュッテ泊
20 日 わかた下山。他の三名は和佐又ヒュッテ→大普賢岳→行者還岳→避難小屋泊
21 日 避難小屋→天瀬→バス→柏木・車テポ地
3 月 18 日
2310 柏木着 テント泊
3 月 19 日
0645 発
0745 上谷分岐(峠)
0800 上谷分岐発
0905 稜線(1160m 地点)で小休止
1115 伯母谷覗着 昼食。
1150 伯母谷覗発
1220 奥駈分岐(女人結界)
1350 小普賢岳通過 大普賢の取付きにザックを置いて空身で登頂。
1415 大普賢岳着
1440 大普賢岳発 和佐又へ下り始める。
1500 頂上直下の東側斜面をトラバース中、わかたが地獄谷へ滑落。平熊がわかたの滑落地点まで降り救命処置を施す。こまくさは連絡のため和佐又ヒュッテへ下る。
1600 平熊による推定死亡時刻
2300 救助隊が一般登山道・現場への降り口付近に到着
3 月 20 日
0030 三人の救助隊員が現場に到着 わかたの死亡を確認、ヒュッテに連絡。
0300 一般登山道への遺体引き上げ完了
0930 ヘリコプターによる遺体の搬送
1994.03.19.Sat.晴れ
1451 大和上市駅着
1530 バスは 5 分遅れで出発。
1620 杉の湯着 ここでバスを乗り継ぐ。待ち時間 5 分。柏木で車窓からパーティの車を確認。
1718 和佐又口バス停着
1811 和佐又ヒュッテ着
わかたさんの滑落死をこまくささんより知らされる。
1830 わかたさんの奥さんと連絡がつく
まもなく警察官二名が到着。捜索願の書式にパーティーの構成、それぞれの職業、登山歴、登山ルート、計画書、事故の現場、事故の様子などを記す。
1900 地元の救助隊が到着
2000 第一次救助隊が登山開始。私のみ連絡係としてヒュッテに残ることになる。
2200 奥さんが到着
2300 遺族が到着
1994.03.20.Sun.曇り
0100 駒草山岳会の矢野さん、林さんらが到着。登攀用具等をスピーディーに準備する。
0130 発
先ほどから小屋と警察の車をしばしば往復していたわかたさんのお父さんが来られ、
「あかなんだそうですわ。さっき警察から聞きました」
「…………………………」
奥さんは無言で空を見上げている。
0300 矢野さん達がそろそろ現場に着く頃である。
小屋の主人が「救助隊から『今から下山は困難』とのことで、ヘリの要請がありました。活動再開は夜が明けてからになりますから皆さん少し休んで下さい。明日がしんどいですよ」と言うが眠れたものではない。パーティの行動時間は既に 20 時間を越えている。
0500 奥さんが食堂へ戻ってくる。
大方七時間ほとんど沈黙状態だったが、取り留めもない話を始める。
空が白みはじめ大普賢岳が見えてくる。
0900 奈良県警のヘリコプターが飛来 風が強く、燃料を減らさねばならないためしばし近辺を周回する。
1000 ヒュッテ前の広場上空にホバリングしたヘリが遺体をゆっくり降ろし、警察の者がフックをはずす。遺族とヒュッテ居残り組が遺体をヒュッテの一室へ運び込み、ザイルを解く。
硬直した体をシュラフから出し靴を脱がせる。両足首は不自然に曲がり、顔は樹木にでもぶつかったように歪んでいる。
地元医師による検死。
1130 パーティ二名と救助隊がヒュッテ着
1200 寝台車が出発
私を含めたパーティ三名は未明に駆けつけた仲間の車に乗る。
柏木にデポされているパーティの車へ運転手として私一人移る。
1400 吉野警察署着 遺族が死体検案書を受け取り、出るところであった。
1630 事情聴取終了
荷物をパーティの車に積み替え、関係者三人で帰途に就く。
1930 西宮の自宅着